右と左 -能の場合-

ゲームの右と左 マリオはなぜ右を向いているのか - 最終防衛ライン3

上にリンクした記事は、映像表現や舞台演劇およびコンピュータゲームにおいて、右左の方向が象徴するものや見え方についての考察したものです。一般的に舞台やドラマ、アニメなどの映像表現で右が上手、左が下手となり、右から左への方向が(ポジティブな意味合いを持つ、あるいは加速感を表現する)進行方向なのに、テレビゲームのシューティングやアクションの横スクロールで左から右への進行方向が多いのは何故か、ということを論じているものです。

あんまり上手下手というのを意識してドラマやアニメを観たことがなかったので、素直に興味深く読んで、これからちょっと気にして観てみようかなと思いました。

ところで、能では登場は常に観客側からみて左手の橋掛りから右(中央)の舞台へと右向きで、退場は左向きです。これは上記の記事での考察のメインストリームとは逆転しています。
一応上記の記事でも能や歌舞伎について「入退場の一部例外」として触れた上で

例えば、能などの演舞で演者が左から登場するのは視線の動きと一致するから、じっくりと演舞を観察することができる利点がある。

と移動方向と視線の動きの関係からくる加速感・減速感と絡めた考察がちらりと書いてあるだけなのですが、どうもお能フェチのわたしにはここがちょっと考察が足りないような気がしてしまいます。というわけで勝手に補足してみることにします。

まず第一に、上記記事で冒頭で触れられているように「日本は元々左上位だったが現代は右上位が優先」、その変換時期については「明治以降、日本では西洋の右上位が流入する」のだから、鎌倉時代から室町時代に完成され、起源としてはもっと古い(諸説ありますが)能の入退場の方向が逆転しているのは当然、というのはひとつの有力な説明になりますよね。id:lastlineさんがこのように前置きしておきながら、能(やそれに起源を持つ他の日本の芸能)での例外について、この点を指摘していないのが不思議なくらい明白なことです。

でも、わたしにはどうもそれで終わらないんじゃなかろうかという気がしています。確かにお能は様式美の世界でもありますが、表現ということについてはもっと根源的に考え抜かれていると思うので、「視線と対象物の動きの交差から感じる加速感・減速感」とか、そこからくる左右の方向のポジティブ・ネガティブな印象という生理的な(根拠は薄いですけど、なんとなく実感としては頷けます)点がそんなにあっさり無視されているはずないと思えるのです。

ここでわたしが重要と思うのは、お能において主人公(と言いきれるものでもないですが)であるシテは基本的に幽鬼の類であることということです。場合によっては生霊だったり天女とか何かの精だったりすることもありますが、舞台上に表れる姿は主に人外のモノ(=彼岸に属するもモノ、陰の世界に属するモノ)です*1。そうしたモノの登場に相応しい方向は、上記記事のロジックに依るならば左から右なのではないでしょうか?

もちろん脇役(これもそう言いきれるものでもないんですが)であるワキやワキツレが同様の登場をするということも考えなくてはいけないのですが……わたしの少ないお能経験をふりしぼって考えてみると「船弁慶」の子方とワキである源の頼朝と武蔵坊弁慶、「土蜘蛛」の前ツレである源頼光*2の登場というのは、実は普通の舞台における「入場」とはちょっと意味合いが違います。お能では舞台に幕というものがありませんので、地謡や囃子はもちろん、普通の舞台でいえば「幕が上がった時に舞台に居る登場人物」にあたる演者が舞台にあがる様子もまるみえです。この手の「最初にセットアップするための登場」というのは囃子がなかったりもします。つまりこういう役の登場は実は普通の舞台でいうと幕の裏側で行なわれている状態と同じと考えると、

2. 来訪者は左からやってくる
    * 下手である左が下座となり玄関だから

4. 主人公は右から入場する
    * 右が上座となるから。また、来訪者が来る場合は右にいる。

に合致し、上記記事の考察に沿っていると考えられるのではないでしょうか。なぜなら基本的に常に悲劇である能においては、この考察においての「主人公」と「来訪者」の関係はしばしば逆転する(シテを単純に「主人公」と訳せない理由でもあります)と考えられるからです。

まとめ

  • 舞台では観客から見て右側が上手で、左側が下手
  • しかし能をはじめとする日本の古典芸能では入退場の方向が例外的
    • 「日本は元々左上位だったが現代は右上位が優先」という歴史的経緯によるもの?
    • 基本的に悲劇であり、シテが人外のものである(ことが多い)能においては、逆向きの登場こそが象徴論的にも正しいのかも。
    • 更に幕というものがない能では、登場のようにみえるものが実際には「舞台のセットアップ」に類するものであることもある。

*1:まあただ前シテと後シテが別人の場合、前シテが普通の人間(主に女性)であることはままありますが……

*2:ツレはどっちかというとシテの側の登場人物という扱いなのですが、「土蜘蛛」の場合源頼光はあきらかにシテと敵対関係にある高貴な人物という存在です